聖徳太子は日本人ならば知らない人はいない、歴史上の人物だと言われています。現在ではその存在を否定する学者も見られるようになりましたが、日本史上重要な役割を果たしことに変わりありません。太子が誕生したのは6世紀のことで、用明天皇の子だと言われていることから皇族の出身です。
仏教が伝来すると、その信仰をめぐって蘇我氏と物部氏が対立しますが太子は仏教を保護する蘇我氏に味方し、物部氏と戦いました。結果、物部氏が敗れたことで仏教は日本中に広まっていき各地に寺院が次々に建立されていきます。これにより力を付けた太子は推古天皇の時代に天皇を補佐するための役職である摂政に就任し、次々と仏教の持つ霊性に基づいた政策を打ち出していきます。
その最初が日本初の健保である十七条の憲法です。これは何事も話し合いで決めなさいということや、三宝すなわち仏法僧を敬いなさいといった仏教に則った生き方を提示しています。冠位十二階という、身分ではなく能力によって役人を登用する制度を定めたのも太子です。これまでは家柄が良ければ能力がなくても重要な官職を与えられてきましたが、それではこの国の政治が上手くいかないと考え家柄に関係なく誰でも要職に就ける制度をつくったのです。
この後に世界最古の木造建築である法隆寺を建立し、仏教を勉強するための場所として使用されるようになりました。この頃遣隋使が日本に来るようになると、中国の仏教を太子自身が学ぶようになり三経義疏という注釈書を著したのです。後の研究で、これらは日本初の仏教の研究書だということが分かっています。このように宗教を大切にしてきた太子ですが、晩年には蘇我氏と協力して日本の成り立ちや天皇家の系譜などをまとめ、歴史を残すことに注力しています。太子は622年に没し、手厚く葬られましたが上述の通り太子が制定した憲法では現在の日本社会でも大切な部分だと言われている、話し合いの精神が残されているのです。