日本の歴史は戦国時代などにみえる様に土地の取り合いが歴史の表舞台でした。しかし、飛行機や汽車や自動車の無い時代、大量で安全にしかも低コストで人や物資を運ぶ方法は船をおいてありませんでした。
特に現代の様に大型船の無い時代には、瀬戸内海は大陸や朝鮮半島や九州から畿内に向けてのルートとして、重要な交通の要所でした。
しかし、瀬戸内海の中には、今治と大島の間にある来島海峡の様に、潮流が10ノットにもなる所もあり、動力の無い時代には現代以上の技術が必要だったでしょう。またその様な所には権力が発生し、日本の歴史に大きく関わって来た事も安易に想像できます。
鎌倉時代から室町時代にかけて60年程続いた南北朝の時代に、南朝の後醍醐天皇の懐良親王を助けた村上義弘が頭角を現し、村上水軍の基盤を確立したと伝えられています。その後、村上水軍は来島村上家・能島村上家(大島)・因島村上家の三家に別れて夫々の歴史をたどりますが、村上水軍が最大に勢力を拡大した頃は、西は山口の上関、東は香川の塩飽諸島とほぼ瀬戸内海全域を制海していたのですから、中世の歴史を語るのに村上水軍を外して語る事は難しいと思います。
高龍寺に縁の深い能島村上家の武吉は毛利家の家臣となり、織田水軍(九鬼)と2度戦いましたが、2度目の戦いで織田水軍が仕立てた鉄甲船の前に大敗し、次第に勢力を弱めていきます。豊臣秀吉の時代になり、海上の権力を警戒した秀吉によって海賊禁止令が出され、武吉は毛利家を頼って山口の屋代島に移り住みます。
今でも、高龍寺では村上水軍の菩提寺として、義弘公の位牌とお墓をお奉りし、国より賜わった義弘公正五位の証書保管しています。